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GAKUSHUIN EQUESTRIAN TEAM

学習院馬術部の歴史History

学習院馬術部の歴史

明治時代

学習院の馬術は、明治12年10月18日、神田錦町の院内の馬場開き「馬術開業式」により始まった。当日は皇族方や華族が来院され、丸馬場の馬場開きでは打毬が行われ、また、2名の陸軍大尉が師範役に依頼された。当時、馬術は男子実学(高等科に相当)の正課として出発し、その後は一時的に正課から外されることはあったものの、昭和10年代まで馬術の正課は続いた。

当時は、明治維新後の日本が国際社会へ参加するために、多くの西洋文明を取入れた時期で、馬術においてもまだ近代馬術が確立されていなかった。また、馬は軍にとっては重要な機動力であり、軍は馬の改良や社会への普及に努めていた。学習院でも「華族少壮の者はなるべく陸海軍に従事すべし」という御沙汰を受け、武課教育にも力を入れていた。

その後学習院は、虎ノ門、四谷、目白と移転を繰り返したが、各場所にて馬術教育が行われ、馬場内だけでなく、外乗や遠乗なども盛んに行われた。また、正課以外の時間には、馬好きの学生が馬場に乗りに来ており、有志による馬術も始まっていた。なお、明治37年、馬術教官として白極兵治氏が就任された。

明治40年、その後の学習院に大きな影響を与えた乃木院長が就任された。乃木院長は馬をこよなく愛され、特に馬術教育には力を注ぎ、学習院の馬術は大いに振興した。また、明治41年、学習院が目白に移転されると、馬場は正門の目白通りを挟んで向かい側に作られ、厩舎(現在でも使用されている)と馬場が設けられた。当時は馬術を行っている学生や団体が殆ど無く、対外試合等は全く行われなかった。

大正時代

大正時代に入ると、折りからの世界的な軍縮の影響を受けた軍は、馬匹や其の施設に余力が生じ、これを学生や一般に開放したため、乗馬ブームが起こり、馬術界は飛躍的に発展した。学生の馬術部や民間の乗馬クラブが数多く生まれ、乗馬協会などが発足したのもこの頃である。また、民間の競技会や軍後援の試合が数多く行われた。

当時、学習院での馬術は武課課程において行われていたが、大正3年、武術修業志願の学生に対しては正課外に行うという規定が定められた。そして、対象11年、この規制の一部改正時に「剣道、柔道、弓道、馬術を各々部と称す」という条文が加えられ、「馬術部」という名称が誕生した。ただし、現在の様に運動部としてまとまって運営されていたものではなく、まだ有志としての域を出ていなかった。また、大正時代後半からは、全国高等学校対抗競技会(インターハイ)、習志野乗馬大会や東北馬術競技大会等に参加し、全国高等学校対抗競技会ではいきなり2連覇を成し遂げた。

なお、大正10年には、馬術教官として陸軍大尉山本盛重氏(学習院初等科卒業)が就任し、白極教官と共にその指導に当たられ、学習院の馬術は飛躍的に向上した。

昭和時代

昭和時代に入ると、馬術部は大正時代同様、対外試合や競技会等で好成績を挙げていたが、昭和8年には関東学生乗馬協会に加盟し、参加初の争覇戦にて2連覇を成し遂げた。院内においては、春の打毬大会、秋の馬術大会が行われ、馬術はますます盛んになってきた。特に打毬は、主馬寮、華族会館、桜友会とともに頂点を極めており、学習院学生が東京帝国大学や民間等への普及に努めていた時期であった。さらに、白子村(現埼玉県和光市付近)への日帰りの外乗や、青梅や大宮方面への2泊3日程度の遠乗も行われた。

なお、昭和2年には、それまで正門の前にあった厩舎と馬場が現在の位置に移設されている。

大正時代から始まった軍施設による練習には、引き続き参加した。特に、冬の除隊期間を利用した習志野騎兵連隊では、学習院のみが営内生活を許され、10日間に及ぶ強化練習が行われた。なお、砲工学校における強化練習にも参加し、対外試合に備えた。

また、昭和7年に開催されたロサンゼルス・オリンピックでは、陸軍中尉西竹一氏(学習院初等科卒業)が大障碍競技にて優勝、学習院の山本教官が総合競技7位と優秀な成績を修めるなど、国内の乗馬ブームは最高潮に達した。

このように、時局が悪化するまでは軍の後押しもあり、馬術は非常に発展し、学習院の馬術にとっては、古き良き時代であった。また、昭和11年には二村秀治教官が、また、昭和16年には平賀啓作氏が着任した。

しかし、昭和10年頃からの時局の緊迫化、昭和16年の太平洋戦争勃発により、学徒動員、学徒出陣により学生馬術も事実上休止状態に陥った。学習院馬術部においても、正課授業の中止、学徒動員、学徒出陣、馬糧不足等により、15、6頭いた馬匹は徐々に減ってゆき、終戦を越えた馬はわずかに4頭であった。

戦中から戦後の昭和24年頃にかけての馬術部の状況は、食糧不足、馬糧不足、資金不足また、終戦後の軍解体にともなう馬術の没落により、維持が非常に困難になった。多くの国民が衣食住(特に食)がままならないこの時期に、二村教官、平賀氏および当時の部員たちは、馬糧集めに奔走し、現在では想像もできない時勢のなか、馬術部維持に必死であった。そして、遂に昭和23年冬から昭和24年春まで馬が1頭も居なくなるという状況になった。

戦後の昭和時代

昭和20年代は、陸軍の解体により再起不能と思われていた馬術界であったが、各学校馬術部の活躍、進駐軍の持ち込んできたホースショー等により復興の兆しが見えてきた。また、昭和24年、新制学習院大学が誕生したが、その中で馬術部の存続について協議され、高等科、大学での一貫教育現場の運動部として馬術部が認められた。

昭和25年、高等科第2学年に進まれた皇太子殿下(今上天皇)は高等科馬術部に籍を置かれ、秋には主将となられ各対抗試合にてご活躍になった。また、世の中が落ち着くにつれ、部員も徐々に増えてきたが、慢性的な馬匹不足であり、騎乗回数は非常に少なかった。しかし、インターハイや争覇戦では、優勝や準優勝などの優秀な成績を修め、学習院の学生馬術界への復活をアピールした。

また、運営資金集めとして当時流行していたダンスパーティーを開催するなど、パーティー券の販売に奔走していた。

なお、昭和17年に発足した桜鞍会は、戦後ただちに活動再開の動きが見られ、桜鞍会寄附金募集計画が会員へ送付された。具体的な成果は不明であるが、当時の混乱期にこのような動きがあったことは特筆すべき事項である。

昭和30年代に入ると、経済白書の冒頭に「もはや戦後ではない」と記される程社会は復興した。また、昭和34年、皇太子殿下(今上天皇)御成婚、昭和39年、東京オリンピックの開催と高度成長時代の幕開けとなった。

当時の馬術部の状況は、6、7頭の馬匹に大学・女子短大・高等科を合わせて約60、70名の部員が在籍し、下級生は乗せてもらうために競って練習に参加するという状況であった。そのため、授業後に宮内庁主馬班にて練習をさせていただいたこともあった。

学生馬術界の馬匹状況は地方競馬や農家からの払下げが中心で、競技は概ね貸与馬によるものが中心となり、競技の面白さはあるもののレベルという面からは、残念ながら質の高い状況にはなかった。

しかしながら、全日本学生馬術選手権、自馬競技大会等の学生馬術や国体等の一般馬術界の各種競技においても、学習院馬術部は優勝や上位入賞を果たし、そのレベルはトップクラスに位置していた。

昭和34年には、「皇太子殿下御成婚慶祝馬術大会」が、また、昭和39年には、部員であられた津軽華子様が常陸宮妃殿下となられることを記念して、「常陸宮殿下同妃殿下御結婚慶祝馬術大会」が学習院馬場にて行われた。

昭和36年、永年にわたり馬術部を指導してきてくださった二村秀治氏が逝去し、学習院同窓会館にて告別式が行われた。その後、宮内庁主馬班より板橋清吉氏を技術コーチとして迎え現在に至っている。

また、昭和36年、馬術部の現状を諸先輩や学校関係者等に知っていただくべく馬術部の機関紙として『蹄跡』が創刊された。なお、昭和20年代から運営資金集めとして行われていたダンスパーティーに替わり、ジャズコンサートが行われるようになった。

昭和39年には東京オリンピックが開催され、日本経済も飛躍的に成長した。昭和40年代に入ると、オリンピックを契機に各スポーツ種目の振興が図られ、またレジャーブームに乗り、新たに乗馬クラブがあちらこちらに生れた。学生馬術においては、自馬の養繋の普及に伴い、貸与馬競技から自馬競技へ大きく変遷を遂げた時期でもあった。

競技においては、全日本学生馬術選手権での優勝など各種競技で個人、団体優勝を飾るなど好成績を修めた。特に、昭和43年には全日本学生馬場馬術競技大会にて、団体優勝、「馬場の学習院」を印象付けた。さらに、昭和47年には全日本学生馬術選手権大会にて、学習院から3年連続優勝者を輩出し、学生日本一に輝いた。また、関東学生女子自馬競技団体優勝など女子の活躍も目立ってきた。なお、昭和46年から47年にかけて流行したインフルエンザにより、多くの馬がこの病魔に苦しめられた。

さらに、昭和49年から昭和52年にかけて、全日本学生馬場馬術大会4連覇を成し遂げ、「馬場の学習院」を揺るぎないものにした。

また、昭和40年代になると各校とも卒業生の会からの援助が不可欠な状況になり、それまで活動が停滞していた桜鞍会が再建され、初乗り会、東宮御所懇親乗馬会、遠乗会など会員相互の懇親と馬術部への援助強化が図られるようになった。

昭和50年代は全日本学生馬場馬術競技会で4年連続優勝、昭和53年から54年まで2年連続準優勝という輝かしい記録を出した時期であり、「馬場の学習院」を更なるものとした。また、馬場馬術だけでなく、障碍、総合も全日本学生競技会の常連になっており数々の輝かしい記録を残している。

その中でも特徴的なのが、馬匹が変わっても連続優勝できたという馬場馬の充実と、女子の活躍が挙げられる。特に、団体チームには女子選手も入りながら優勝できたということもあり、大学から始めた選手も数多く活躍した。

しかし、その後の高等科部員の減少、大学から入ってくる男子部員への負担増加により、途中で退部する部員が多くなり、昭和54年には大学の1年生から3年生がすべて女子部員という厳しい状況になった。

なお、昭和40年代に再建された桜鞍会では、引続き皇太子殿下ご参加の初乗り会やユーカリ牧場での遠乗会などが行われた。

昭和60年代に入ると、バブル経済により、社会は岩戸・神武景気以来の好景気に沸いた。また、中央競馬のイメージアップ効果や女性を中心とした乗馬ブームが広がり、好景気に乗じて、馬術界においても高額な馬匹が試合に登場したりするなどの話題があった。

学習院は、昭和50年代後半に活躍した優秀馬匹により、引続き全日本学生馬場馬術を始め各競技会にて好成績を残した。しかし、より良い馬匹の購入が不可欠となり、そのために桜鞍会では、馬術部強化委員会が結成され、選手の育成や馬匹購入について議論が行われた。

また、運営資金集めのためのアルバイトも行われ、夏休み、冬休みを利用した伊勢丹バイトの他、馬運車による馬輸送バイト等を行った。しかし、馬匹維持や治療、車両維持等馬術部の財政状況は悪化した。

平成から現代へ

昭和天皇が崩御され、時代は平成となった。高度成長時代を経て、右肩上がりだった経済はバブル崩壊により冷え込んだ。国際的にも、冷戦の終焉など従来の認識が覆される程、情勢は変わった。馬術界においても、競技馬が高価格にて取引きされるなど、従来の学生馬術とはかけ離れた状況になってきた。また、昭和16年から目白の馬場を見守ってくださった平賀啓作氏の引退など昭和の面影も徐々に薄くなってきた。

しかし、昭和63年の事故により馬運車がなくなり、その輸送費がかさむことや、より良質の馬匹購入のために、多大な資金が必要となったことにより、部の財政が著しく悪化した。学生アルバイトの負担は勢い増え、昼夜を問わずアルバイトに励んだ。また、これに合わせ桜鞍会でも馬術部援助を目的としたコンサートを2度行い、会員の協力により当初の目標を上回る成果を上げることが出来た。

安全性か効率性かを最後まで議論していた馬運車の所有についても、現役学生と桜鞍会との合意を得、桜鞍会会員の寄附により、平成10年新馬運車を購入した。

馬術の捉え方も変化した。その1つが、障害者の方を招いて馬と触れってもらう「ホースセラピー」であった。ただ、「勝つための運動部」でなく「これから求められる運動部」を目指すべく模索を始めたのだ。

───『学習院馬術百二十年史』より引用───


 

学習院大学馬術部

 

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